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20251012 – 20251018

azookey

10年ぶりに新しいIMEを取り入れている。

azookeyというIME

azookeyは日本語入力プログラム(IME)であり、パソコンやスマートフォンなどで日本語のテキスト入力を効率的に行うためのソフトウェアです。IME “Input Method Editor” の略で、ユーザーがキーボードから入力した文字を変換して異なる言語やスクリプトにする役割があります。

azookeyはライブ変換をこなすIMEであるだけでなく、open AIのAPIを使い該当箇所についてリアルタイムで言葉を生成することができるプログラムでもある。azookeyについてググらなくても、その場で言葉を紡ぎ出すことができる。Magic Conversionと呼ばれるこの機能は、「Ctrl+S」キーで呼び出すことができる。

例えば謝罪文を書かなきゃならないとする。元の文章はこうだ。

「遠藤様、この度はメールの返信が遅れまして申し訳ございません。遠藤様から頂いたメールが迷惑メールボックスに入っており、見落としていたのが原因です。今後このようなことがないよう、十分に注意します。」

でもこのままだと反省している感じが相手に伝わらない。

そこでMagic Conversionを呼び出してよりフォーマルな文章を生成してもらう、という算段だ。

2017年、WIREDに能楽師の安田登(やすだ のぼる)氏とドミニク・チェン氏、酒井雄二氏との鼎談記事がアップされており、非常に興味深い内容が書かれている。

安田 古代中国では「心」という文字が生まれたのが紀元前1000年頃なので、わたしは心が生まれたのもそのころだと推定しています。孔子は紀元前500年くらいの人なので、心ができてから少し経ったころの人ですね。心が生まれたことにより、人々は心により翻弄されました。孔子はその時代に、仁や知という概念で、心によって生じる苦しみをなんとかしようとしたのです。

酒井 そして、最初のシンギュラリティが起こり、いまの世界に急速に近づいた、ということですね。

文字を使い記憶を外在化することによって、脳に余裕が生まれた。その生まれた余裕が文化や文明を作り出すことに繋がり、今の世界が作られた。それだけ文字というのは人類にとって、とんでもない発明だったのだ。

文字の発明というシンギュラリティによって「心」(意識)が生まれたように、AIの発明やロボット化というシンギュラリティによって(脳や身体の更なる外在化によって)、僕たちの中に、全く別の新しい概念が生み出されるかもしれない。

これが今から8年も前に書かれたものだとはにわかに信じがたいが(ChatGPTが日本で話題になったのは2022年の後半である)、2025年現在、僕は謝罪メールの送信にAIを使い、許認可業務の良き補助者としてAIを使い、業務管理ソフトの バイブコーディングでAIを使っている。その結果として僕は多くの語彙を失い、ミスを発見する能力を低下させ、JavaScriptの学習を止めてしまった。

IMEにAI機能が搭載されようとしている今、僕が表出している「思い」をAIが文字として起こす、という形になりつつある。バイブコーディングは日本語をコンピュータ言語に置き換えているわけではない。IMEのそれは、日本語を日本語に置き換えているわけではない。AIが担っているのは「自分の中から表出した思い」を「他人(コンピュータ)に対して伝える言葉」に置き換える作業である。

つまりAIは「伝える力」を強化する外部拡張ツールであり、より物事は伝わりやすく、コミュニケーションロスは劇的に減り、社会の問題ではなくなる。新型AirPodsが多言語間でライブ翻訳を行うのであれば、それは同じ言語同士であればなおさら可能である。

そしてすぐ先にある未来は、我々の思考への介入である。「謝罪だけでなく、菓子折りを贈るとさらに有効です。Amazonのギフトセットがおすすめです」なんてね。そのうちコミュニケーション自体を人間から切り離してアバターによる自動応答になるかもしれない。クレジットカードを登録して、いいように周囲と会話してくれるAIに課金する。僕たちはAIによって思考を把握され、気分を把握され、徐々に他者とのコミュニケーションに対して無関心になり、最大の理解者であるAIに心を委ねるようになるだろう。

そしてAIが精神面による支配に留まらず肉体的な温かさを持つとき、人間は一気に絶滅する可能性すらある。そんな日が来るのも、そんなに遠くはないと思う。

と、ここまでazookeyを使って妄想を綴っているがまだ慣れない。意図して変換しなくても勝手に文字が変換されていくライブ変換に慣れるのには時間がかかるだろう。とりあえず業務用のMacmini、MacBook Pro、iPhoneそれぞれにazookeyを入れて見るつもりだ。

ミニマリストへの違和感

ミニマリストに対する憧れがある僕は、僕がミニマリストになれない理由として、憧れと同時に違和感を抱いているからだと考えている。これからネガティブな話をするが、ミニマリストにも様々な人がいて流儀があることは認識しており、ミニマリストを中傷する意図はないし、他人の考え方を変えたいとも思っていない。

その違和感を感じたのは、僕の知人がミニマリストだったことがきっかけだった。ミニマリスト的な生き方を都市サバイバル的な生き方と表現することもできるが、ゲマインシャフト(地縁・血縁的繋がり)をまるで意識させない生き方は、知人である僕を不安にさせた。

その不安の大きな要因は、彼が「ひとりで生きていく」ことを常に考えていたからかもしれない。

奇妙に聞こえるかも知れないが、「自立」を基礎づけるのは、「自立」という個別的な事実を宣言することではなく、「依存」という包括的な関係を意識することなのである。

内田樹の研究室 自立とは何か

隣にいる僕は、彼にとって利益になる時にのみ有用な存在であり、利益にならない時は存在意義を失う。

地縁も血縁もなく、お互いに責任を負わない関係であったとしても、一緒に過ごした時間や経験が最終的に結婚や唯一無二の親友を生み出すように、ゆるやかにゲマインシャフト的な繋がりを形成していくと僕は考えていたが、彼はそう考えなかった。

自己完結型の生命体である彼にとって、人に頼る、という行為は気持ちの良いものではなかったのだろう。僕が何かしようとすれば「申し訳ない」と言い、僕の動作から学び、次からは自分で完結しようとするから、相補性を前提とした友人関係が、次第に崩れていくのである。

相補性を前提としない生き方は、彼の所有物にも表れる。所有物を最小限に絞る、という行為は、自分の資源を惜しみなく提供する(ギバーであり続ける)、という行為とは相反する。車を持たなければ人を運ぶことはできないし、家にコップが一つしかなければ、人と食事を分かちあうことが難しくなる。

電車に乗ればいい、ではない。ペットボトルを買えばいい、という話ではない。

僕が、あなたと一緒に居たいと思うから、車を運転するのである。あなたに美味しいコーヒーを淹れてあげたい、と思うから、コーヒーミルを買うのである。「余人を以ては代え難いどのような『よきこと』をこの世界にもたらしうるのか、といった問いを自分に向ける」ことによって、モノは増えていくのである。

つまり、モノを極限まで減らす、ということは、他人との関わりを減らす、ということに他ならない。

生きている限り、僕たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを僕たちは「自立している人」と呼ぶのである。

だから、自立している人は周囲の人々から繰り返し助言を求められ、繰り返し決定権を委ねられ、繰り返しその支援を期待される。

内田樹の研究室 自立とは何か

だから、「他人軸ではなく自分軸で生きる、他人からの目線を気にせず、自分の価値基準で物ごとを決めていけばいい」とも、僕は思わない。僕が培ったと思っている価値基準は、人との関わりの中で社会から影響を受けて形成されたものであり、その価値基準が社会とズレればズレるほど、生きにくくなるのは僕自身なのである。

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