
はじめまして。遠藤です。
普段は行政書士(個人事務所)として生計を立てている、一人のおじさんです。
実は昔(20代の頃だったと思います)、「simplist.jp」というドメインを所有していました。当時は、9時から23時まで拘束されるような仕事に就いていましたから、シンプルな生き方に憧れていました。
憧れるだけで、到底シンプルと言えるような生き方をしていなかったし、物欲や性欲、睡眠欲それぞれがマックスな年頃でしたから、思考は散漫、文章を書くこともなく、ドメインは手放してしまいました。
「シンプリスト」という言葉はメジャーではありません。同時期に流行した言葉として「ミニマリスト」があります。

日本では2015年に「ミニマリスト」という言葉が一気に世間に認知され(新語・流行語大賞にノミネート)、そのピークは2020年1月だったようです。コロナの流行をきっかけに、緩やかなダウントレンドに移行しています。
これはnote「暮らしと癒し」の記事「ミニマリストが減って「ゆるミニマリスト」が増えた3つの理由」のなかで、興味深い指摘がなされています。

ミニマリストは外部サービスに依存しているため、コロナ禍であらゆるサービスが停止すると、多くの人にとって現実的な選択肢では無くなってしまいました。
また、長く続いたデフレが終わり、インフレ基調の世の中ではモノやサービスの料金が高くなり、ミニマリスト的な生き方への誘因が弱まってしまったのです。

一方、世界では、ゆるやかな上昇トレンドが続いているようです。
外部サービスへの依存を前提としたミニマリストの生活圏は自然と都市部に限られます。世界全体の都市化(アーバナイゼーション)が進み、都市部に生きる人間の総数が増えたことが要因と考えられます。アメリカやイギリスといった先進国では頭打ちの傾向がみられますが、インドでは上昇トレンドです。

ところで、ミニマリストとは、何を意味するのでしょうか。
ミニマリズム(最小限主義)から派生した言葉ですから、ここでは「物質的な所有を最小限まで省くことによって、他の制約から解放されたい人」と仮定しましょう。他の制約とは、例えば時間、金銭、人間関係などが考えられます。
何をもって最小限とするかはその人の価値観や生活基準によって異なりますから、ミニマリストのミニマル加減は人によって大きく差の出るところです。
とはいえ、「物質的な所有を最小限」にしようと思っていても、外部サービスへの依存度を高めることについては、地域によっては難しい場合があります。例えば、僕がかつて住んでいた奥多摩では、タクシーなんて走ってませんし、バスは1日に3本。自動車の所有は必須でした。ファストフードはもちろん、ファミレスも存在しません。コインランドリーも、コンビニも、スーパーも存在しない。日用品の買い出しには片道1時間かかります。
つまり、奥多摩ではミニマリスト的な生き方が「他の制約からの解放」に繋がらないのです。車が無いと困るし、車があったところで、買い出しには時間がかかる。外部サービスへの依存は難しい。ある程度の備蓄がないと災害時に物理的に死ぬ。家も大きくスペースがありますから、灯油ランプでもつけながら読書するのが楽しみになる。焚き火をやるならダッチオーブンも欲しくなる。

奥多摩は極端な例ですが、逆に考えれば、徒歩でおおよそのサービスを享受できるほどの都市圏で、ある程度の災害時にも早期の復旧や代替手段が容易に確保できる地域、が、主にミニマリストの生活圏になると考えられます。そのようなエリアとして僕が思い浮かべることができるのは、23区内、100万人都市のごく一部です。
ミニマルな生き方への憧れは僕も強く持っています。山に何の道具を持って行くかを考えるようなワクワク感に似ていますね。
ただ、僕の住んでいる地域(奥多摩よりは都市化されていますが)ではバックパック1つで生きていくのは難しそうです。それに、行政書士の仕事をするためには複合機や書棚は必須ですし、多重化(例えば複合機とスキャナー専用機、デスクトップとラップトップを保有する等)も必要だと考えています。
また、僕は、ゲゼルシャフト的(利益社会的)な生き方が行き過ぎることを良しとしていません。地縁や血縁(ゲマインシャフト)への煩わしさを十分に感じつつも、人間社会の持つ相互補完性をある程度大切にしながら生きていきたいとも思っています。他人との関わりは貨幣交換によるものだけでなく、貨幣以外のモノを差し出すために、僕はいくらかの「不要な」道具を所有しておく必要があり、ミニマリストにはなれそうもありません。現実は登山とは違います。
そこで思いついた造語が「シンプリスト」です。カタカナの「シンプル」は「簡素」とか「簡潔」のような意味を持ちますが、そこに「直感的」という意味合いも付与して使用します。GTDのデビッド・アレン氏の言うところの「水のように澄んだ心」を手に入れるために、日々の情報処理で脳がパンクしないための生き方を探ります。
「簡潔で、直感的である」ことを判断基準として日々を選択することは、今の時代では半ば当たり前になりつつありますが、それは「バカになる」ということではなく、「複雑になり過ぎた現実を理解するための余力を残して生きる」ことだと思います。
ボードリヤールの言葉を借りれば、中世社会が神と悪魔の上で均衡を保ち、我々の社会(70年代以降)は消費とその告発の上で均衡を保っています。告発の一形態としてミニマリズムは浸透したのでしょうが、2010年代以降、我々は単なる消費社会を生きているではなく、同時に情報錯乱社会を生きています。
情報については、何を得て、何を捨てるか、という物質的な捉え方ではなく、どのように処理していくか、というフローの観点が求められていると思います。
データはSSDを使えばある程度の量は保存できるし、保存したデータが日々の思考や生活を侵害することはありません。毎朝、新聞を読み、夜のテレビニュースを見ていた時代ではないからこそ、溢れかえる情報(視覚、聴覚、嗅覚情報など)との接し方を再構築する必要があるのではないでしょうか。
長くなりましたが、「簡潔で、直感的」なモノや方法論についてこれから書き綴っていきたいと思います。モノを減らす、集約するというストック的視点(ミニマリスト的視点)に加え、情報との接し方を変える、というフロー的視点を含めて、考え続けていきます。
これは、僕が人に啓蒙するためのものではなく、複雑に物事を考えようとする僕がシンプルな思考を目指す過程として書き記す日記のようなものです。
「simplist.jp」というドメイン、久しぶりに検索したら誰も使っておらず運よく再取得できたのも、神の計らいですかね。
長くなりましたので今日はこのへんで。
